思案橋周辺の地元民の不安について

思案橋周辺の地元民の不安について
(1)開催要項
1.開催日時:2025■ 2/22 15:30~
2.開催場所:信濃川河川事務所 1階会議室
3.出席者:信濃川河川事務所 北沢 茂樹 副所長
  須山 聡 管理課長
  草生津白主防災会副会長 元井憲雄、   草生津町内会長 樋口哲夫
  長岡市議会議員 大竹雅春
(2)須山管理課長からの説明
  思案橋周辺の堤防の状況と対応について
長岡市への働きかけは、土屋所長から既に実施済。信濃川河川事務所として地元の不安に対して何か出
来ぬかという事で検討、以下が概要。
思案橋近辺は信濃川河川事務所の長岡出張所の担当であるが、工事関係者と話合いをし、発生費用に
関しては補正予算が通過したこともあって、河川管理施設の維持工事費の中から捻出することとなっ
た。樹木の伐採、草刈り、袋詰め玉石による護岸を考えている。思案橋直下は昭和49年実施の空石積み
で護岸がされている(石をコンクリートで固めた石貼りではない)。 思案橋信濃川との境界位置から
大田川に仮設された橋であり、橋の上流側の太田川の護岸は矢板護岸が基本で、思案橋の直近上流はこ
れに袋詰め玉石が施されている。更にその上流は令和2年に鋼矢板とコンクリートで改修がされてい
る。空石積み部の護岸を行うには、調査と工事の為に思案橋直下にドライエリアを設け河床部を露出さ
せるる必要があり、これを行うには大田川の流れを2回変更しなければならない。更に重量の大きい空
石を橋の下から取り除く事は工事自体が非常に大がかりとなる。このような事情から今回の護岸工事は
橋直下の空石部に対しては行えない為、思案橋下流信濃川右岸側の既設護岸部に対して行う。内容的
には袋入り玉石(2ト ン入り)を40袋を50~70ト ンクレーンで仮設する。早ければ年内、積雪の状況で
次年度への繰り越しも考えられる。これによる大田川自体の流下量へは大きな影響はないと考えている

自主防災会の意見と思い
令和2年に行われた太田川右岸の護岸工事では鋼矢板とコンクリートで下部を補強し、上部法面は転圧を施されている。信濃川氾濫時に左近と信濃の防災ステーションを結ぶ堤防道路として、また長岡市を守る重要な堤防として強靭さが必要と判断されての補強と思う。

今回説明時に見せてもらった思案橋下部の現況写真では思案橋基礎部分の沈下および倒壊も確認されている。

国交省で_[壺彊置上という位置付けがされている構造物により、長岡市を守るべき存在の堤防が橋脚により発生する乱流により洗堀されているのではないだろうかなどと素人目には思われる。

最も心配な思案橋直下の護岸がこの橋の為に昭和49年 (橋が架けられたのは昭和43年と長岡市の資料にはあるが)以降全くされていないのは非常に不安である。
堤防の上面高さより橋の上面が低い橋梁、水流の攪乱、流木の障害となりそうな橋脚部の部材構成、市道認定されている交通量の多い片側交互通行の橋梁、3年更新の「仮橋」の60年近い存在、そして更なる更新。どれを見ても異常な状況としか思われない。
令和8年度から第一次国土強靭化実施中期計画が開始されることとなっており、そして地
元住人がそれぞれの立場で災害を最小限に抑える努力が必要と考えます。
昨今「天災は忘れる間もなくやってくる」と言われるくらいに頻発しています。草生津住民だけではなく長岡市民全体の問題として少しでも早く、より安全、安心に住めるようにお力添えをよろしくお願いします。
文責:草生津自主防災会 元井憲雄(配布:12/29 須山管理課長、大竹市議会議員、田中自主防災会会長、樋口町内会長

防災避難訓練


信濃川早期警戒情報」で広域避難を!
「広域避難」とは、自家用車等で浸水 しない地域にある車中避難所へ避難するも
のです。
草生津町内は、ほぼ全域が信濃川の氾濫時に立ち退き避難が必要な区域です。
信濃川早期警戒情報」が出たら、浸水想定区域外に避難することが求められます。
この度、次のとおり長岡市防災訓練が実施されますので、草生津町内会自主防災
会として「広域避難」に参加する予定ですが、一般世帯の方々にもご案内をするこ
とにしました。参加をご希望する方は、下記の連絡先までお知らせ ください。


実施 日時 令和 7年 8月 31日 (日 )

午前 8時半頃から午前 9時半頃まで

実施内容 1長岡市からの「信濃川早期警戒情報」を町内会が受け、参

加者の皆さまに伝達します。(8時半頃)
2伝達を受けた参加者の皆さまは、自家用車で避難場所ま
で移動してください。
3移動後、参加確認をしたのち現地解散。(9時半頃)
避難場所 長岡市営スキー場 C駐車場 (別紙「案内図」を参照)
参加希望の連絡先 :自 主防災会会長  (携帯 )

〈ご注意〉訓練参加に伴う自家用車等での事故は、参加者自身の加入する保険
による対応 とな りますので、 くれ ぐれも安全運転でお願いします。

町内会退会者のごみ収集所の利用料

この記事では、福井県での裁判事例を通じて、町内会退会者がごみ収集所の利用料を支払う義務について言及しています。この判決が都市生活や地域コミュニティに与える影響が考察されています。以下が主なポイントです:

1. **ごみ収集所の利用料問題**:
   - 福井地裁は、町内会を退会した住民がごみ収集所を利用するために年額1万5000円を支払うのが適当であると判定。
   - これは、町内会の活動維持費としての性格を持ちます。

2. **町内会の役割**:
   - ごみ収集所の管理、防犯カメラ設置、不法投棄対策など、行政だけでは補えない地域サービスを担当。
   - 活動経費の一部が退会者にも負担されることになった。

3. **地域コミュニティの変化**:
   - プライバシー懸念や行事への参加圧力などの理由で町内会を退会する人が増加。
   - 判決が示唆する「必要なサービスを利用した分だけ支払う」という仕組みへの移行可能性。

4. **共有経済モデルへの移行**:
   - ごみ収集などのサービスも、共有経済的なサブスクリプションモデルへ移行する兆し。
   - 地域コミュニティとインフラ利用に市場原理が介入する流れが浮き彫りに。

全体的に、この判決は地域活動の持続可能性や都市生活の再定義に繋がる可能性があると指摘されています。特に、町内会というボランティア組織の今後のあり方や、住民が地域サービスをどのように支えるべきかが問われています。

草生津町内会自主防災会規約の改定

     草生津町内会自主防災会規約
 (名 称)

 第1条 この会は、草生津町内会自主防災会(以下「本会」という。)と称する。
 (目 的)

 第2条 本会は、自助、共助の促進を図ることにより、災害による被害を最小限
 (減災)に抑え、安全安心に暮らせる地域づくりを実現することを目的とする。
 (組織)

 第3条 本会は、草生津町内会組織をもとに結成し、町内会住民により組織する。
 また、必要に応じて町外の組織等からアドバイザーを加えることができる。
 (事業)

 第4条 本会は、第2条の目的を達成するため、以下の事業を行う。

(1)平時の活動

①防災・減災に関する啓発及び訓練の実施
②防災資機材の整備及び活用
③地域の防災体制の強化と支援体制の整備
④行政。関係機関・地域団体との連携

(2)災害発生時の活動

①災害時の情報収集・伝達及び住民の安否確認
②避難支援及び地域の安全確保
③防災対策本部の運営及び関係機関との連携

(3)そ の他、本会の目的を達成するために必要な事項

(経費)
第5条 本会の事業を推進するための経費は、草生津町内会が負担するほか、行
政からの補助金及び寄付金によりまかなう。
(役員等)
第6条 本会の事業を推進するため、次の役員を置く。
(1)防災会会長 1人 (互選による。)

 (2)防災会副会長 若千名(互選による。)

 (3)防災会事務局 若干名(互選による。

 (4)防災会町内担当 3人 (草生津1・2・3丁目町内の副会長があたる。)

 (5)防災活動に積極的な町内会住民 若干名

 (6)民生委員

2 前項のほか、次の防災推進員を置く。
 (1)神社委員長
 (2)子ども会会長
 (3)草生津1・ 2・3丁目町内会の班長
 (役員の任務)

第7条 役員の任務は以下のとおりとする。
 (1)会長は、本会を代表し、会務を統括する。
 (2)副会長は、会長を補佐し、会長に事故あるときはその任を代行する。
 (3)役員に事故あるときは代わる者を選出することができる。
 (4)任期中に大規模災害があり復旧まで任務の追行が必要な場合、会長以下
 役員は必要の期間まで新役員と協力し任務にあたる。
 (任期と期間)
第8条 役員の任期は4月 1日から翌々年の3月 31日の2年とし、再任は妨げない。

防災会会長の選出時および交代があった場合は長岡市に届け出る。
(運営委員会の構成と職務)

第9条 運営委員会は、本会の会長・副会長と必要な役員で構成し、第4条に定
 める事業の計画と推進を行うほか、本会の会計をつかさどる。
付則
この規約は、平成19年 12月 17日から施行する。
平成22年4月 1日一部改定
平成28年6月 1日一部改定
令和7 年4月 1日一部改定

赤川改修推進委員会令和6年度第2回説明会

                                                                                                                  令和7年 1月 20日
          町内会会員各位

                                                                                                                          町内会長


                  赤川改修推進委員会令和6年度第2回説明会について(お知らせ)


                                                                                                                                 
委員会で、現在の調査・設計について説明、資料配布がありましたので、お知らせします。


                                                    記


1 委員会日時 令和7年1月17日 (金)19時から20時30分
2 場     所  千手コミュニティセンター2階和室
3出 席 者
(1) 説明側 長岡市下水道課岩崎課長、反町補佐、酒井工務第1係長、勝俣主査
(2) 委員会 高野委員長事務局 荒木県議会議員 渡辺コミュニティセンター長
関係3町内会長 草生津樋口会長 西千手1丁目栗林会長
         西千手2丁目小野会長
(3)町内関係者  3町内会から3名前後合計9名
4説明内容
①令和4年度に赤川改修推進委員会より要望書を提出いただき、令和5年度に現地の
測量 に着手した。現地は路肩が崩れたり、川に車や人が転落する事故も発生している。
できるだけ早く仕事を進めたいと思いますし、安全にも配慮していきたい。
②令和6年度概略設計のうちボーリング調査で、地盤が比較的良いことが分かつた
令和7年度は、詳細設計をすすめる(会議資料「赤川改修事業スケジュール(案)」)。
③赤川は、現在の幅2m、深さ1.2mで想定流量を確保するボックスカルバートと考えて
いる(別添1断面図のとおり)。
④道路は、川と左右の道路で幅が約10mあり、中央に幅5mの車道、路肩線を引いて町
内側に路肩分を2.5mずつ取ると、仮に考えている(断面図のとおり)。
⑤今後、道路下のガス、水道、下水と国の消流雪路などの工事要領、工事が片側の道
路上でしかできないので、警察を含め関係機関と協議しながら設計を進めていく。
※断面図は、工事区間全体の平面図の一部。平面図は、埋設管の走行状態を図に書き
入れたりするための仮のもので、工事図面ではないのと、大判のため添付できません。
5 質疑`要望
Ql 投雪口は設置可能か
A車道部分に設けることになり危険で、車両通行上十分な厚みの蓋が 必要となるため
、現実的に使用はできないと考え、設置は難しいです。

ただ、水路確認の点検口を何か所か設けるため、地域が市道を交通止めにする場合は使えるかもしれません。


Q2 交通量が増え、速度も高まる交通安全上の危険が増すことの対策はどうか
Aポールを設置する等方法はあり、また、住宅地の速度規制は30k/hなので
、速度を出して走る車は規制をしてもらう。そのほか、今後警察の指導を受けながら危険とならないよう設計していきます。
Q3 道路全体の幅が10mあり、消雪パイプを入れても消えない心配がある。また、入つている部分とこれから入れるか相談する場所があり、負担がある。
A 現在消雪パイプが入っているところは、市が道路中央に 移設する 。これは 、改修要望のとおりです。
消雪パイプがないところは、機械除雪をする。
消雪設備は、地域で組合を作って整備してもらい、市は補助金を出している。消雪パ
イプを入れても、交差点の隅など雪が消えないところなどは、組合で専門業者に上手く
設計していただきたいものです。
Q4 赤川を覆う案のほか、現状の川に近い形の案も提案してもらえるのではなかったか
A 3町内からの改修要望(別添2、 説明中事務局から提示)に そつて 事業を 進めている
もので、何通りも設計することはできないものです。
要望1 広い路肩が草生津から通学路にできるかもしれないので、道路の設計でも配慮
願いたい
要望2 危険な状態なので、早く覆ってキレイにしてほしい
                                     以上


説明会忘備として3町内会・事務局共有
草生津町内会長 樋口
西千手1丁目町内会長 栗林
西千手2丁目町内会長 小野
事務局 高野・荒木
(文責:西千手1栗林

枯木の想い出(4)

宅地地図⓵



大正三年に大洪水のあったことは有名ですが、当時、私の家は現在の場所で、大堤防と大土手の間に建っていました。

       
       
 


この土手に挾まれたところは、大手外とも呼ばれていました。

さて、そのとき、増水した水は大堤防を越える程でしたが、左近の方で堤防が破れ、その水は、山田、文治、山本町等の低い地区に集まりました。私達のところは草生津用水(草生津江ともいい、左近から、蔵王の、当時、、伝染病院のあったところ迄続いている)から水が溢れ、一時は床上七尺程になったと思います。ちょうど、貯水池のようでした。それでも用水は支流が各所にあり、他の町より水ひきが早いとのことでしたが、 一週間程は二階生活をしたと思います。文治や山本町の低い土地の浸水の状況は、後に祖父の家、上桝楼でみたのですが、壁の、床上九尺位のところに浸水の跡が残っていた程でした。

その後五年頃の洪水の時だったと思いますが、増水で、長生橋の中間の部分が崩れ、橋上に通行人が三、四人残ったまま流されていく、気の毒な場面を二階から見ていたことがありました。・信農川が増水すると、、各家の親父どもは川端に出て、 「かき網」という道具で魚をとったものでした。

私の母の実家は上桝屋という遊郭で、私はそこで明治四十二年に生れました。また母方の親戚も郭内に数軒ありましたので、子供のときは専ら文治で生活し、遊郭内の出来事を子供ながらこの目で見て生長しました。その頃が文治の一番にぎやかな時代でした。

大門から一等地を進んだ突き当りに水子供養地蔵尊があり、その向いは公園で茶屋もありました。この地蔵尊は、かっては草生津、唯敬寺の屋敷にあり、供養に花火を打ち上げたのが長岡花火の始まりと伝えられています。夏が来ると、公園では、毎夜、素人相撲が行なわれ、ときには五色軍談(男の盲人の歌うチョンガレ)や、ごぜ歌の催しがあり、それがすむと池のまわりを甚句を歌って踊り歩いたものです。大正の中頃迄は、遊郭は昼間から大鼓、三味線の音で賑わい、夜は夜で大勢の遊野郎や川船衆がねり歩き、 一日中ざわめきが続きました。お盆になると、中央の十字路を中心いに、町内は勿論、近郷の盆踊りの流れも加わり、女郎衆や芸者衆がはなやかな色どりを添え、毎夜、朝まで踊りつづけました。芥箱を太鼓代りにたたく人もいて、朝は掃除に大変でした。

一等地の客筋は、船主、筏主、卸問屋の主人、近在の大地主達で、それ以下の商人、職人衆は二等地を馴染みにしていたようでした。しかし、大正の終り頃には、日中の騒ぎはなくなっていったようです。

文治遊郭は新保石五郎が責任者となって、明治三十九年に埋め立てを行ない、四十年から二年位の間に地図に書いたような家並みが整ったものです。地割り等は吉原を手本にしたといわれ、建物の立派さは、関東、東北 北陸のうちで、仙台に次ぐものであると、楼主達は自慢していたものでした。

その当時の貸座業約五十軒程ありましたが、その内十数軒は副業的な経営でした。郭をとりしきるのは女房達の仕事で、男達はむしろ邪魔な存在でしたから、本業の仕事は本宅で別に持っていました。商店経営、土建業、材木屋等でした。

従って子供達は、進学する少数の者を除き両親の意志により奉公に出ていました。

郭の子供達は放漫に育てられたと思っているでしようが、しつけは厳格でした。それでも矢張り悪童で、さんざん人を困らす様な事をしました。

信濃川の堤防は、暖くなると、若い男女の密会の場所となるのは今と同じですが、。昔は陸揚げした丸太に腰かける者が多かったので、そこにコールタルやペンキをぬり、尻を真黒にさせて面白がりました。

朝起会が始まり、朝六時に平潟神社に集合して体操をしました。朝食前で腹がすいているので、各家に配達されている牛乳を失敬しては呑み、見つけられて逃げまわったこともたびたびでした。抱えの女郎衆の履物をかくして、遣いをせびったりもしました。雨や雪で外に出られぬときは、家の中であばれると叱られますが、大門の近くの、溝ロお湯屋に集合し、浴場を遊び場にしました。

 

私の見た郭内の女性

 

女郎衆は下品な人間と白眼視されましたが、彼女達は貧苦の生活を味った苦労人で、山深いところから出て来た純朴な

       
   
     
 


人達でしたから、 一般の家庭の子女より優れたところがいつばいあったと思います。芸者衆は芸ごとや作法を仕込まれていましたが、家事の点では女郎衆の方が上だったと思います。年期があけて、家庭の主婦となったり、良家の後妻となって、うまくいった人達をいつばい知っています。

当時、郭は、日中は芸者衆の芸ごと、作法の教室となり、夕方からいわゆる見番の仕事をしたのですが、大正八、九年頃からその仕事は中止したようでした。登楼する客達は、楼主によって秘かに姿、形が書きとめられ、また、相方から特長が聞き出され、見番に届けられていました。これは警察の捜査に利用されたのです。検査院は女郎衆の性病検査をしたところです。女郎衆は公娼としての自分自身の体を考え月二回検査しました。又、見番提出台帳は各置屋に有り、翌朝午前中に持参致しました。

当時芸子とし各家には十才位より住み込みました。午前中は芸妓見習や子守として、午後は千手校の子守学校に通学し、小学校生と同様に終学証を下附されていました。数年後、現在の明石医院の場所に創設され独立しました。当時芸子見習いは大変厳格な教育を受けました。日中は前記の如くで、夕刻には年中休みなく、風雪中でも二階の雨戸

をあけて大きな声を張り上げ歌と三味線の古を約二時間位します。家を出る時はともかく、主家に動める時はテレビの「おしん」以上の苦難の道で、時に出来が悪い時には罰として便所前に両手で水を満した洗面器を持ち、直立の格好を一時間以上もさせられました。一人前になるには大変な時代でした。

文治遊郭内の事件

少年の頃の忘れられない事件があります。その一つは 「鈴弁殺し」で、東京で弁護士をしていた山田憲が、金貸業、鈴木弁造を殺し、大型トランクに詰めて長岡に運び、一夜、文治の緑楼で散財の上、翌日大工町の川船にのって新川から信濃川に出、トランクを投棄したのです。しかし後日、トランクは百本杭のところで浮上、事件は発覚、流行歌が出来るほど全国的に有名になったのです。

もう一つは「シンンン」 の事件です。 「シンシン」火葬中の屍体を夜中に引きずり出し、長生橋を渡り、とは大工町にいた精薄の男の呼び名で、或日、彼は大島の火葬場で

土手通りを通り、地蔵尊のみ堂の前に棄てて行った事件です。翌朝、大騒きとなり、悪臭に閉ロしながら仕末したのでした。その頃、大島の火葬場は長生橋のやや上手の河原にあり、今も雑木林が残っています。            

 

 

 

           
       
       
 
 

宅地地図②



 

 

終戦より町名改正まで

 

復興事業に協力

八月一日の空襲で焼け出され、おまけに顔に火傷を負いましたが、焼け跡に仮りの小屋を建て、八月十日に分散した家族を呼びました。トタン葺きで、夜は釘穴から月光が差込みました。店員や弟と焼け跡の整理をしていて、終戦になったという噂を聞き、半信半疑でしたが、米軍機がビラを撒き、終戦を知りました。

九月中旬、不注意で足首を火傷し、歩行出来ず、小屋で療養していると、山田町の中川老人がいらっしゃって、市の土木課長の小幡氏が復興材を市民に配給したいから、是非、製材工場を作てほしいとっ言っていると伝えました。県木材会 社の役員は誰も引き受けてくれず、山弥以外に適任者はいないので、是非引き受けてくれという。私は金がなく、家族十 二人を食べさせるのにも困てっいる状態だから、到底引き受けられないとお断りしましたが、小幡課長、中川老人の再三の依頼があり、中川老人が一万円を出資し、市が機械を取り揃えるというのでお引き受けして、十月上旬「準備を始めました。

草生津まで電気を引くにも電柱がなく、工場を現在の中央病院の並びにあった空き地に建てました。工場建築の用材に阪之上小学校体育館の建築用の材木を流用しました。この体育館は上棟式をすませた後空襲に遭ったのですが、生徒は疎開していないし、取りあえず学校は不用でしたから、体育館を移築して製材工場にした次第でした。工員は戦前からの米山秀八他六名、事務は叔父の押之見で、雪を目前にした十一月二十五日、家族五人と新しい土地に移住しました。知人に頼って越冬用の食料を確保し、工員たちに分配して安心して仕事に励んでもらいました。原木もエ場の電力も確保され、十二月中旬には作業が開始されました。小幡課長と相談の上、市民一軒当たり十三石と計算して配給することにしました。その後、隣地に市会議員の山崎氏が製材に参加、学校町の浪花屋こと今井市会議員も工場を作りました。阪之上小学校の教室には長岡市及び復興部が入り、市役所の業務や配給が安定してきました。その頃、奥山主任、町内の横田、横山君、他町の丸山、駒形、佐々木、長谷川、山崎君等が製品を取りに来て市民に配給していました。四十年も昔のことになってしまいましたから、皆、退職されたことでしよう。その頃は食料不足で、工員及び若手職員達作業参加者には三時の間食に薯を食べて空腹を凌ぎさせました。薯は片貝の知人の世話で入手していました。焼け出されて、

どの家にも風呂はありませんでしたから、私は工場に風呂を作り、三時には入浴できるようにしておき、来客に入浴して頂ぎ喜ばれました。千手一丁目に本多さんという医師が居られ、焼け出されて大島の商店の二階に仮り住まいして居られました。自転車で往診して回り、最後は私の家で入浴して帰られました。時には酒を持参され、湯上がりに一杯上がって御機嫌でした。お陰で、子供が熱を出したり、工員が病気になったときは、すぐ診て頂けました。又、野本文吉町内会長、その他の町内役員の方々が市配給受領のため相談に来宅され、金額不足分を立替致して現地の皆さんは大変でした。又、

坂口床屋さんは見附より通勤されておりました。帰路には立ち寄り町内の状態を聞き、入浴をして見附へ帰られた事もあ りました。

昭和ニ十三年、隣の山崎さんは製材を止められ、私も仕事が減りましたので、以前の鉄道関係の仕事が、売上げの半分を占めるようになってゆきました。

 

 

市の約朿違反

 

市と私の間には中川老を立合人とし、小幡課長を窓口にして次の五項目の口約がされていました。

  • 工場の建設には阪之上小学校の建築のための用材を無償で提供する。ただし、建築費は山弥が負担する。
  • 機械は市が購入するが、山弥は作業代金の中から月賦で返済する。一
  • 敷地の地代を市に納入する。
  • 事業 「後も引き続き営業して差し支えない。
  • 建造物は協力費として無償で払い下げる。

以上の契約で工場で生活をしていましたが、学徒動員で戦死した弟の康司の遺骨を迎える家が無く、昭和二十二年。急きょ現在地に住宅を建設し、母方の親戚の厄介になっていた両親や弟妹も迎えました。それと同時に、戦死した舎弟の法要を致しました。

ところが二十三年六月、市会議員の大隅吉松氏が来訪され、復興事業は明年四月に廃止することが決まったから工場を移転してくれと言われ吃驚しました。そこで中川老を仲介に再三交渉しましたが、かっての口約束があったことは与り知らぬことといわれ、結局、五十万円の移転料を支払うことで妥協の形になり、二十四年五月に引っ越しを始めたのですが、結局この五十万円も貰えませんでした。こうした苦境にあったときも、父の事業欲は衰えず、訳の分らぬ事業に資金を注ぎ込む始末で苦労しました。

六月に移転は終了しましたが、配電工事が出来ず、三か月間仕事が出来ず、工員の賃金の支払い、移転の費用、計八十 一万円を市に補償してくれと交渉しましたが駄目で、結局、中川老の仲介で初めて銀行から借金をしました。草生津に移動後は、国鉄、私鉄、東北電力内務省等をお得意にし、借入金も少しずつ返し、無事に二十四年が暮れました。

堤防の決壊

 

昭和二十五年、売上も増え、八月の花火の収入もありホッとしていた矢先、八月四日の朝四時半頃、向島砂利の関君に起こされました。信濃川の堤防に穴があいて水漏れていると言われ、行って見ますと、今の吉原建設の裏の堤防下部分付近に直径五糎程の穴があいて水が吹き出していました。取りあえず細い丸太を突っ込んで塞ぎ、慌てて内務省の役人を起こしました。信濃川が増水していることは知っていましたが、まさか、うちの町内に水害が及ぶとは思ってもみませんでした。その頃、ラジオや新聞で利根川の堤防破壊が報じられていました。

その時には内々米軍の戦災の見返り資金とし内務省長岡出張所割当額一億円がありました。その金で六月頃から堤防の改修工事を行うことになっていて、七月頃から住民が移転しなければならなくなるのは、市当局や市会議員や内務省木暮事務官から知らされていました。しかし、製材工場移転の件で市に苦汁を呑まされたので知らんふりをしていました。中島、草生津地区の地主、農地関係の意見の取りまとめには大谷内権四郎氏が選ばれていました。左近から内務省事務所までの家屋の移転を松田市長、笠輪課長、木暮氏、市会議員井上、吉原氏が説得に来られましたが応じませんでした。しかし、堤防に穴があくという事態になったため応ぜざるを得なくなり、寺井所長、木暮課長来宅、関君と私が十ニ日に話し合い、私が草生津地内住民関係代表者となり協力を承諾しました。

堤防改修工事

 

堤防工事と同時に市の復興事業として大土手通りの拡張事業を同時に行うことになり、堤防に添って並んでいた家は後ろと前から攻められる形となりました。市が作った図面を一枚入手し熟覧の上、大谷内権四郎氏と市復興事務所長の原沢 文夫氏を訪ねました。原沢氏は同級生で、氏は私の来訪を驚いていました。そこで原案を修正してもらい、屋敷の狭くなるのを最小限に食い止め、また、草生津江の上に家屋を建築することを承認してもらいました。突然私が各家を廻り、説明し了承を得ました。 (草生津江は内務省エ事事務所と用水組合が管理することになっていました。用水組合は昭和三十七年に解散しました)

当時は物資不足の時代でしたから、住民が移転するにはトタンとか釘とかの建築資材の配給をうけなければ動けず、配給は市の仕事でしたが、移転工事は別途だとして、市会議員や市当局は威張ってばかりいるだけで仕事をせず、移転は捗りませんでした。仕方なく私は日夜各家を訪問して意見を聞き、代替地や移転先地主達と交渉し、承諾を得たわけです。新築資金のない者に古屋を探してやったり、屋敷の無くなる者には隣りから分けてもらったりして、九月中旬には工事が始められるようにし、寺井所長や関係者に喜んで頂きました。当時はセメントが購人不可能の時代でしたので、

           
       
     
 
 


役所から二十トン供 い、各戸に配りました。-

工事の下請けは田中角栄社長の田中組で、工事担当の風祭氏以下六人の若い衆は、林建具店に事務所を構えていましたが、移転が進まず困っていました。若い衆は後日、越後交通の役員になって、材木の買い付けで顔を合せることがあり、昔のことを懐かしく話し合いました。また、その後の取り引きにも力になって頂ぎ感謝しています。堤防工事は十一月の期限までに完了しました。

怪我

ところで十二月三日、請け負った商店の上棟式に出席した折、五メートル上から落下して人事不省に陥ってしまいました。その後約一年は病床に横たわっていました。そのため、移転費用の分配にも立合えず、、十日の妺の結婚式にも出席できす、年末の商品の納入も滞りました。

内務省木暮課長が見舞いに来て下され、その時、我が家の移転資金七十四万円の内訳を持参されました。ところが、この中から四十三万円が立て替え金として差し引かれているのです。これは何ですかと聞くと、セメント二十トンの代金が貴方の名義で出庫されているので、貴方から代金をもらうことになるというのです。なんたることかと声も出ませんでした。その後、セメントの配給を受けたものから代金を徴収しようとしましたが、無償の配給だと思っていたといわれ払ってくれません。市で補助する話もありましたが、工事事務所の米山職員の公金隠匿事件が発生し、私も二回裁判所で証言をさせられるごたごたが重なり、補助金の話も立ち消えて大変な迷惑を蒙りました。全額の約三分の一の十数万円を取り返しただけでした。

昭和二十五年は怪我で働けず、借入金の返済に困りましたが、銀行の好意で健康になるまで猶予するということで神様のお陰と感謝しました。しかし、昭和二十六年の新年を迎えたものの、売上げは低下し、細々と過ごし、家内ともども初めての苦境を味わいました。市内や新潟の友人から月々生活費を借り入れ療養生活をしていた状態でした。この間、下請け作業人の裏切行為がありましたが、国鉄の係官が見抜き、大事に至らずに済んだことは幸いでした。しかし、十月頃から健康を回復し始め、営業も上向きになって来ました。

 

              工員の事故死                           

昭和ニ十七年のお正月には思い掛けないことが起きました。一月ニ十四日、午後一時、銀行に、見舞いを頂いたお礼方方、月末の支払いにと資金借入れに行ったところ、工員に事故があったから至急帰れという電話連絡だという。急ぎ帰ると、工員の村山修君が丸鋸で西瓜を割ったように頭を割られ即死していました。店員も検死の医者も気味悪がって近づかす、折よく友人の高橋繁次君が来店していたので手伝って貰い、二人で頭を合せ白布を巻き納棺しました。自分乍らよくやったと思いました。三時頃には父親や親戚が到着、遺体を刈羽郡大広田まで運びたいと言います。雪中で、しかも遠路です。私は返答に困りましたが、運ぶなら汽車しかないと思いまして、長岡駅長に電話して頼み、また、新津の管理局にも事情を話してお願いし、郵便用列車を柏崎駅まで回送してもらい、午後六時頃、遺体を荷物として駅長室を通ってホームに運びました。広田の駅長もビックリしていまして、この様な車両は初めてだと言っておられました。

私はまだ病み上がりで、気力でお願いしたことが聞いて頂けたのでした「捨てる神あれば、拾う神あり」とはよく言ったものだと思いました。葬儀を含めて費用はおよそ三十万円で、八月末までに返済するという約東で借入し、花火のさじきの売上げで払いました。

十一月上京し、米国材を契約して帰ったところ、病臥中だった父は帰宅後一時間で死亡し、この年には二回葬式を出しました。何となく不安でした。資金も、不幸や仕入れで使い果たし、土地を売却せねばならなくなるというピンチでした。。

 

 神明さまの建設

話は前後しますが、昭和二十年一月に町内会長の野本氏や役員の池田、田中、江口の諸氏と会談したとき、町の復興のために青年団を作ろうと意見が一致し、昭和ニ十一年「三丁目青年団」を会長・島峯三郎、副会長・自山登で発足させました。その後(青年会に一任し、私は一時不参加です)、中通りの青年も参加し、全町の青年団となり神明神社の拝殿の新築に大変な力を発揮しました。私も金垣君と参加したのですが、私は不幸や仕事の関係で活躍出来ませんでした。

昭和三十年十月二十九日、草生津青年団は再出発の式を行い、神殿の建設をしようと話し合いました。私は銀行で山田さまとお会いし、本殿の建設に尽力して欲しいと要請されました。そこで同業の丸石材木店・長谷川久吉と相談し、草生津三つの町内会から月々百円を寄付してもらうことにし、ニ年間で七十万円とする案を作りました。

昭和三十一年の暮れ、建築について隣町の吉原氏と相談しましたが、役員の反対にあって中止、吉原氏を除く事にしました。最終的には私が独断で自分で設計図をはじめいろいろの書類を作り、桃生宮司を通じて神社庁の許可を得ました。三つの町内会長を設立の委員とし、委員長は長谷川久吉氏、七十万円の予算で発足しました。内陣の用材は私が寄付し、拝殿関係は久吉君が寄付し、石垣は山田さんや町内有力者の寄付を受け、予算以内で済ますことが出来ました。

現存の神殿は昭和三十二年七月七日に埈工式と同時に遷宮式を催しました。その頃、私は江口さんが退かれて町内会長をしていました。青年団が中心となって盛大なお祭りをし、市長の内山さんを招待しました。下土手地区では十数人の若衆が珍流会を作り、町内を練り歩きました。

 
   

 

町内会長

 

町内の団結を計るため、第一回目の役員会で私はつぎの提案をしました。、

一 毎月二十日八時(冬期は七時)に集合し町内費を同日会計係に提出すること。

二 班長目身が出席し代理は止めること。止むを得ない場合は、隣班に依頼すること。

三 ニ十分間経ったら会議を始める。会議中は私語を禁止する。

四 議決は出席者の半数以上の賛成で決する。

  町内の事業は内容によって若い衆か老人の担当かを決める。

五、町内の団結を計る。

 

半年位経って、効果が現れて来たと思います。

その後、三丁目通りは螢光灯に切り替って町内の歩行に大変寄与致しました。昭和三十年初期の頃、私の家の前の下土手道路の舗装工事が施行されることとなり、負担金の問題が出てきました。」西文治、大川前通り、大工町、山田、草生津三丁目の道路が対象でした。建設省前から長生橋東詰めまでの負担金額は約四十七万円で各家の分担の仕方について意見が纒まらず私に協力が求められました。私は黙って工事の進捗を見ながら日を延ばし、修了してから関係の課長にお出で願って金の支払いは出来ぬ旨伝えました。その理由として、復興事業と堤防改良事業の際、私と当時の市長や助役の間の約東不履行のためと言い聞かせまして、結局一文も払わす仕舞いでした。但し融雪工事の費用は多少支払いました。

当時、平島で女子学生の殺人事件があったのを理由に、市内の五箇所に大型の投光器を付けることが決まりました。その内のニつを工業高校の定時制の生徒がいるからという理由で、ライオンズクラブの寄付により土手につけてもらいました。長生橋東詰めは山田町地区会長で、従弟-弥太郎の名で設立しました。また、舗装されて道路がよくなったので、美観の為に街路燈を螢光燈に取り換えてもらい、明るくなって喜ばれました

昭和三十九年頃、小学・中学生の父兄会を開催したいという提案が、千手小学校と南中からあり、父兄に集まって貰いたいということでした。丁度、夕食前の時間で、母親達は支度に多忙な時間でしたが、学校側にも止むを得ない事情があるのだろうと思い承諾しました。私は指定された時間の十分前に拝殿に行き、お茶を用意しましたが、ニ十分過ぎても先生は現れず、父兄に解散を言いましたところ、漸く二人が到着しました。そこで、自分たちが決めた時間をなぜ守らないのか、町内会長自ら準備したのに失敬だと神社の境内で叱ったことがあります。忘れられないことです。その後は全町内の父兄会は集合力が付きました。当時父兄会では無く、全家庭主婦の母親の出席が大部分でした。

               
             
   
 
 


その後、班長や青年会が協力し、全町内の少年団が結成されました 昭和三十八年には電力会社の連動場を借りて運動会が催されました

公民館設立の件

草生津全体に三百四十世帯あり、集会場の建設が望まれていましたので公民館を設立することにしました。

最初の案は、冬季間も利用出来ることを前提として立案しました。祭礼の参会所、舞台及び子供の相撲場、全町集合はパネル敷き。二階は青年-婦人会の集合、各種の修養教室等として、一部に管理人部屋を設ける。基礎工事・材料は町内有志より、又、木材・建設用品も専門店よりの寄付とし、本殿建設と同じ建設予定で立案しました。

私は大谷内三衛、大谷内権四郎氏と相談し、昭和四十年には町内費の額を増やして預金するように、立案内容を説明して役員にお願いしました。その後、町内会長退任後、公民館ができてよかったと思っております。私の最初の案とは違うところもありますが、これも時代の流れかと思っております。

草生津江は中島の農民が管理権を持っていましたが、草生津三丁目の管理は私に任されておりましたので、電気会社社宅から上流の幅を順次一メートルの半分に狭ばめ、通路として利用するように致しました。昭和三十七年には管理権は組合から市に移されました。

町名変更の件

昭和四十一年春、市総務課長と山凵次席がおいでになりました。全市町内区域変更の件に関しての申し入れでした。草生津は、横筋の道路面を縦線の区割(現存線)に変更し、山田・文治,西文治,山本町山田一・二・三町と分割する案を提示しました。私の案として、草生津は旧来通り一・二・三か町とする事と、他町四か町は町名を西町とする事を申し立てました。山田を除き一応三か町会長は私の案に委任する事になりました。四十二年十一月頃、山田公民館で町内会長が集合し、決定をする事になりましたが、各町内代表からは意見発言が何にも無いので、市当局の係員も私の意見に添うことになりました。外文治・山本町春日町とし、内文治・西文治・草生津三丁目の一部で山田町とすることとし、市案も無視できないので以上のように述べました。その前の条件として、草生津町は旧来どおりとして町内会運営をするよう申し立てたのですが、草生聿町の出席役員は無言で、私もこれ以上は一言うべき言葉もなく、市に委託しました。現在振り返ってみると、全町内の隣組としての円満に物事を解決する行為が欠けていたような気がします。

私は長期間、町内会長や神社の総代を勤めましたが、昭和四十三年三月三日町内会が分離しましたので退任しました。

氏子総代はその後二期六年間やりましたが、退任しました。

終戦直後、神前で誓った一生一升の酒をお供えするというのは守ってお供えさせて頂いております。  昭和六十一年五月三十日

注 書中年月日と聞き違い等多少あると思いますが御容赦下さい校正は市川豊樹先生です。転載禁止願います。

枯木の想い出(3)

家業を継ぐ

 

母の死亡で私は帰宅していましたが、主人から電話があり、正月に一時上京してお礼奉公しました。東京は災害復興も一段落し、次第に不況に向っていました。そして、昭和三年から家業に参加しました。

父は請負工事に専念していたので、下条屋さん、かね治さん、本田さんの主人に同伴し、新潟で材木の品質や見方や仕入れの方法を教わりました。今も感謝しています。木材業界は不況で、常用の職人の手間賃は、一日五十五銭と組合の相談で決めました。ところが十一月中旬になって職人が誰も出勤せず、どうしたのかと思っていたら、五十五銭では生活出 一来ない。組合役員と木挽代表が協議中で解決するまで休むというのでした。結局十銭値上げして解決した次第です。

 私の工場には町内から六人、他から四人の工員衆がいました。お得意先は国鉄、私鉄、内務省、「電力会社、市内の土建業者、大工町の棟梁さん達で、不況にもそれほど困りませんでした。

昭和三年十一月末、糸魚川駅が焼失、小柳組からの依頼で大糸線工事の納材があり、引き続き上越線敷設のため宮内から土樽までの駅や宿舎の建設の用材を納入し多忙を極めました。

父は交際が広くいろいろの人が訪ねて来ました。-私は家業以外には手を出さぬ方針で、父のやり方には批判的でした。近所では大谷内、樋口、中川、猪井、市内では木村清三郎、渡辺藤吉、立見屋、小秋元、神谷、杉本歯科等の方々、政治家では西越村の高橋金次郎代議士、田辺孫一郎県会議員や政友会の党員が来て碁を打ったり、政治談義に花を咲かせていました0

大手通りの舗装

昭和四年の末の事、木村市長が来店し、市都市計画で駅前より表町一丁目を直線道路にするので裁判所と長岡病院を移転する、その移転先は下土手を取崩し埋め立てた所とすると申しました。早期に実現したいと聞きました。その後、上越線開通記念博覧会を開催の予定で、そのために駅前通りを直線に舗装したいのだという。木村老は大胆な人物だと聞きました。

市商工会議所は昭和五年頃、与板屋小林材木店の請負で再建されたという事です。父は、駅前通りの舗装を是非自分がしたいと申し出て、高橋代議士等の斡旋で日本舗道本社と連絡して下請けの指名権を得ました。町内の砂利者島峯仁一郎及び関組、金垣が組み、砕石機械は水谷組が担当しました。しかし、信濃川からの玉石採取の許可が内務省から下りず、仕方なく当初は北蒲原郡加治川上流に機械を設置し砕石を赤谷から列車で運搬して大手通りの舗装工事を始めました。その後、信猥川採取の認可を得て、堤外地の西源の土地に機械を設置し各所に砕石を運びました。

玉石は川船から女衆が背負い籠で陸揚げし、砕石は手車で増田や横山や、その他の運送屋が運びました。現在の山崎組や、大石組は水谷組の下請けでした。女衆の日当は六、七十銭、男衆は一円位だったと思います。大手通りの砕石舗装は県内の第一号でした。長岡で砕石出来るようになって、赤谷村の砕石場は下請けの新潟の福田組に譲渡されました。私は父の事業熱に困惑し、砕石事業が終ってどれほど赤字が出るか、戦戦恐恐としていました。

 

上海事件

昭和五年、上越線開通記念博覧会開催のときは、鉄道関係の小柳組戸川組等にお願いして、駅正面の歓迎門、演芸館、売店の用材を納入しました。競争相手に遅れては駄目なので、電話で旧主人の鈴鉄に深川木場で大物材を作って貰い十日位で納入しました。私は相当儲けて先輩の同業者にも褒められました。

       
       
 


その頃、私はニ十三才で、家庭では一人っ子であり、 一族で同級生でもあった西源の息子源吾は九月の花火の最中に病死し、相談相手は全くなくなり、営業上の交際もあったとはいえっ毎夜飲み歩き、。放蕩を始め、-道楽者になり始めていました。当時は意の向くまま同級生及び営業上の仲間達と相当遊びまわりました。不景気をなんとか切り抜け、一安心して昭和七年の正月を迎えたところ、二十三日午前十時半、突然上海事変召集令状があり、ニ十四日、高田の独立山砲隊に急ぎ入営しました。その時の仲間は、町内の大谷内長男君、山田の粉仁の田中君の三人でした。私と長男君は軽重隊で、私と田中君は大隊本部付きでしたが・・・。二月五日、吹雪の夜行列車で大坂港に向い、十日間大坂に滞在の後、出航。上海港から肉弾三勇士で有名になった戦場を通り、南曜に駐屯しました。上陸中、便衣隊の攻撃を受け、同じ船に乗っていた宇都宮連隊から七、八人の戦死者が出ました。そして、五月に平和協定が締結され上海から帰りました。

 

                 東京で独立                                                                                                   

帰って家業を継ぎましたが、留守中に異母兄弟が四人出来ており、父は相変わらず本業を叔父や使用人に任せつばなしの状態で、営業成績も悪化しておりました。町内の丸石、長谷川久吉氏と仕入れを共同購入して当座をしのぎました。父とは再三議論しましたが意見は一致しませんでした。そこで私は独立すべく友人や親戚と相談の上、父の反対を押し切り、上京して、旧主人の鈴鉄岩瀬家に居候し、昭和八年の正月を迎えまた。三月ほど主人の手伝いをした後、主人の世話で木場本所河岸の鶴見参吉商店に入店し納入材部の責任者になりました。入店の前夜、旧主人の岩瀬氏から教訓されたことが現在も忘れられません。

       『思無邪 』   お得意様を疑うような心を無くせよ

  『求仁道』  仕事は誠実に、後ろ指を差されぬよう

 

というのでした。

昭和十年九月、主人と意見が合わず辞職しました。再び岩瀬氏の厄介になり、十一月ニ十五日、無一文ながら仲介業を始めました。鶴見商店退店当時、竹田組伊藤部長担当の府中競馬場、高等農林、品川の電気大学と松竹大船撮影所の移転新築工事等がありました。その納材は十一月以降私が契約する事になり、竹田組社長のきもいりのお蔭様で、先輩の問屋主人連の協力を得て独立第一歩を順調に踏み出しました。又、昭和電工、旭肥料等の課長さんの御引き立ても有り、当時戦争景気も加わり、多量納入する事が出来、手数料の収入も増え、有難く思いました。

最近の新聞紙の記事に、 「松竹五十年記念」とあるのを見つけ、大船への納入は仮小屋用材を最初に持ち込み、以後埈工までの三年間納材していた当時をなっかしく思い出しました。

昭和十三年に結婚し、手元持金三十三円余で第一歩を踏み出した訳です。 (営業資金は別途で)昭和十五年には木材統制令が一年後に施行されると聞きました。が、けやき材は別途というので、帰岡のおり父に進言し、米山八百蔵さんの協力を得て、山弥は「けやき専門店」にすることにしました。こうして終戦まで日本木材社の代行店として営業を続けることが出来たのです。

私も統制令施行後、東京の店をたたみ、家族を連れ帰岡しましたが、その翌朝に太平洋戦争が始まり、いい時に帰ってきたと喜びました。

我が家の工場は私名儀で、新潟県木材第百二号工場として米山秀八、町内の藤川や小熊兄弟等で工場を運営しました。

父弥六は、 「けやき専門の店」として、保線用材や通信用材や造船用材を新潟鉄道局や、関係の官庁に納入して営業を続けました。

 

昭和二十年八月一日の長岡空襲に先立っ三月前、米軍機一機が飛来し、左近の畑に爆弾を一発落として行きました。これが長岡空襲の前触れでした。長岡の空襲について多くの人が記録を残していますが誤りが多いと思っています。

その日、私は木材会社の依頼で早朝から大積の森林組合の供出する造船材を現地調査に行き、午後八時に帰宅しました。入浴中、ラジオの音が異常なので、風呂場から南西の空を見ると銀色の破片が空に大量に舞っており、二十分後、作業着に着替えてタ食をしていると、信濃川の上流の方から河に沿って飛行機の音が聞こえ、その直後、我が家の保管倉庫に焼夷弾の第一弾目が落下、日赤病院方面に第二弾目が落下しました。時間は八時ニ十五分頃と思います。

       
   
     
 



敵機は三波に渡って侵人してきました。第一波は渋海川口から信濃川に沿って侵入し、日赤、中島を攻撃、第二波は鉄道の西側に沿って侵入し、宮原、坂之上、神田を攻撃して信濃川沿いに帰り、第三波は左近から千手、柳原、大手通り、表町等の中心部を攻撃しました。帰路は川西地区の小部落に投弾したようです。

焼夷弾攻撃が激しくなると、柳原、文治、山本町の住民が堤防を目当てに逃げてきました。当時、「つるの湯」の小路(現在の中野さん宅の脇から堤防に上がる道)は、両側の家の火災で熱くて通れず、うちの工場の脇を通って堤防に逃げるより仕方ありません。私は十五、六回も工場内の道を案内し、河原に逃げさせました。その時、私も顔面を焼夷弾で火傷してしまいました。

十時半ころ堤防の上から市内を見渡すと全体が火の海でした。始めは西南の風が吹いて我が家も工場も無事でしたが、九時半頃から火勢で東風に変り、全部焼けてしまいました。東風に変ったお蔭で、線路沿いの袋町、・愛宕町、東神田が焼け残ったのです午前四時すぎ、空は明るくなりました。熱気のある工場の敷地に下りて見回りすると、草生津江の水は湯のように熱くなっていました。その後も時々堤防から下りてみて、もう大丈夫と思って大声で合図し皆を自宅に向かわせました。

河原には直撃をうけて死亡した人の遺体が三体残っていましたので家族と処理しました。我が家の関係では工員の家族一名死亡、工員一名死亡しました。翌日、私は現在の建設省のところに出来た仮診療所で顔の火傷の手当てを受けました。

後日、森立峠に逃げた人の話では、その夜、柳島に一杯落ちた焼夷弾は、お花畑のように、それは見事な眺めだったということです。敵は島に逃げたと思い、島に集中して落としたのだと思います。堤防の内側には幸い少ししか落ちなかったので、大多数の無事に一夜を過ごせたのです。後に数えると、工場に五十六発、倉庫に六十三発落ちていました。家の前側の忠兵衛さんの嫁さんは病気で逃げられず、ニ階の窓から悲鳴をあげて焼死したのは気の毒でした。

鎮火後、大島の工員の家に厄介になり、 一週間後バラックを建てました。焼け跡を整理していると、毎日、・米軍機が低空飛行してきて不安でしたが、その内に「日本軍降伏」 のビラがまかれ終戦を知らされました。

この年は珍しく信濃川の鮭が豊漁でした。師たちは水揚げしても問屋は無く、住んでいる人も少なく、困っていました。毎日 女房達が売りに来るのを一匹すっ買って、さつま揚げと豆と一緒に塩で煮て食べ、うまかったでした。家の子供が栄養失調にならなかったのは鮭の豊漁のお蔭だと思っています。 一匹二十円ほどだったと思います。

九月中旬、三島郡逆谷小学校の生徒が二、三人で「薯づる」を束ねて戦災者を見舞ってくれました。非常に嬉しく一生の思い出になりました。これは私だけかと思っていましたら、町内会長の野本文吉さん等数名と当時の思い出話をしたら、皆も同じ気持ちだったということを知りました。十月頃、-草生津三丁目の所帯数は二十位だったと思います。見舞いというと、県内各地から食器類が届きましたが、半分は欠けたり傷のあるもので、猫や犬扱いされた様な無情さ と思いました。その後、私は県内の災害には一切見舞いはしないことにしました。

当時、父母弟妹は母の実家でご厄介になっており、私たち親子五人はバラックで生活していました。計十ニ名がどうやって生きていったらよいのか途方に暮れていましたが、捨てる神あれば拾う神ありとの諺どおり、長岡駅から使いがあり、至急新潟鉄道局に出頭せよとのこと。私は。ハラック生活中、足に湯をかけて火傷していたので、妻が代理に出頭しました。

すると、すっかり諦めていた八月納人の代金六千八百余円を全額支払って貰い、しかも災害の見舞いといって衣類等も貰って帰ってきました。それでまた生きてゆく自信が生まれてきた次第でした。